説 教

  

収穫のための働き手」                             

                   マタイによる福音書9章35~38節

                      鈴木淳一牧師                                         

 

今年の日曜学校の夏季キャンプは昨年に続き使徒言行録のパウロの伝道旅行を学びました。聖霊に導かれて歩むパウロの旅行を楽しみながら味わいました。パウロはどちらかといえば都市型ですが、イエス様は田舎の町や村を回って歩きました。三五節にもあるように、イエス様は与えられた地域に行きますと、そこの町や村を残らずに回りました。人間的に言えば、居やすいところもあれば、居づらいところもあったことでしょう。きっと拒まれれば、足の塵を払っていったこともあったでしょう。この町は良さそうだ、あの町は見込みがなさそうだという思いがあったことでしょう。しかしイエス様はあまり歓迎されないところも厭わずに回られたのでした。神様から示された土地に赴き、その地域を大事にして尊重して軽んじないというのは、伝道者の基本的姿勢であるともいえるかもしれません。

 

イエス様は町や村の会堂で教えられました。会堂ではだれもが語ることができたからです。御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気、患いを癒されました。イエス様に癒せぬ病は、肉体的にも、精神的にもありません。すべてを癒されます。また群衆の、飼い主がいない羊が弱り果てている様子をご覧になりました。養うものがいないと、魂も体も弱って死んでしまうのです。そのような群衆の一人一人を主は深く憐れまれました。この深く憐れむという言葉は、はらわた痛む、とも訳されますが、感情が体にくる、すなわちイエス様の深い同情、憐れみの深さを示す言葉です。それは人間にはなかなかできない憐れまれ方です。 

 

そのようなイエス様は言われます「収穫は多いが、働き手は少ない」と。私にとってこのみ言葉は想い出深いものがあります。なぜなら私が神学校に入学する時のポスターの標語だったからです。ここで言う収穫とは、来たる日の終末的希望です。そのためにみ言葉を伝える働き手が必要だということです。皆さんはミレーの「種を播く人」という絵をご存じかと思います。種を播く人は収穫を望み、楽しみながら播いているのです。何も意図しないで種を播くということは誰もしません。このように主は、み言葉の種を播く働き手を望んでいます。しかし働き手を送るのは主ご自身であります。

 

働き手には召命が必要です。召命のことを、英語ではコーリング、ドイツ語ではベルーフンクと申しますが、両方ともその原語の意味は「呼ぶ」です。主が自分を呼んでくださり、その御声に従うというのが召命を受けるということです。主は一人一人にそれぞれの道を示されます。必ずしも全員が聖職者の召命を受けるわQ家ではありません。それでもこの世の仕事において忠実に励んで主にささげる生き方を主は望んでおられます。収穫の主は収穫を楽しみにしておられます。働き手もそれぞれの持ち場でみ言葉の種を播き収穫を、望みつつ働きます。人は収穫の主のために働くのが本来的な生き方です。収穫の主は真の主、神でありますから、わたしどもの人生をささげるのに十分ふさわしいお方なのです。そして主が言われる「収穫は多い」というみ言葉に、私どもは終末的希望を持つことができるのです。

 

「収穫は多いが、働き手は少ない」これは、イエス・キリストが、物事がよくわからない群衆を憐れみ、弟子たちに語られた言葉です。この言葉が弟子たちの心にどこまで届いたでしょうか。群衆と同様に弟子たちも愚かでありました。弟子たちはイエス様に従いましたが、主の十字架ではクモの子を散らすように逃げてしまいました。そのように弱く頼りない者たちでした。しかしそのような弟子たちは、復活の主に出会ってから変わったのです。変わったと申しましたが、すべてが変わったとは言えないかもしれません。その人の基本的な性格は変わらなかったのかもしれません。しかし生き方、主に従う決意は変えられたのです。その時に、生前語られた主イエスの言葉が甦り、生きる力、伝道の原動力となって行ったのです。パウロは生前のイエス様を知らなかったけれども、復活の主に出会ってからは、人生を一八〇度方向転換しました。でもその基本的性格は残ったままであったことでしょう。

 

今日の私どもも、礼拝に参与することによって復活の主イエスと出会うことができます。それにより主に従う決意が固くされ、主に従う人生を歩めるようになるのです。